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越前大野城について

越前大野城の概要

越前大野城 復興天守閣

<越前大野城 復興天守閣>

越前大野城は、大野市北西部に位置する大野盆地にある標高約249mの亀山に築かれた平山城です。 安土城が築城された前年、天正3年 (1575) 頃、織田信長より大野郡の3分の2を与えられた金森長近により、5年の歳月をかけて築城されました。 土台となる石垣は、自然石をそのまま積み上げた野面積み(のづらづみ)という工法で作られています。 現在の天守は、昭和43年に絵図や同時代の城を参考に再建されたもので、内部には歴代城主の遺品が数多く展示されています。

歴史

金森長近像

<金森長近像>

天正3年(1575)、織田信長は、金森長近と原政茂の両名に命じて、大野郡の一向一揆を収束させました。その恩賞として、 大野郡の3分の2を長近に、3分の1を政茂に与えたといわれています。 翌年、長近は亀山に平山城の城郭と、その東麓に、大野が「北陸の小京都」と呼ばれる所以となる、短冊状の城下町をつくり始めました。

城主

金森家 裏梅鉢の家紋

<金森家 裏梅鉢の家紋>

土井家 六本杓(ろっぽんしゃく)の家紋

<土井家 六本杓(ろっぽんしゃく)の家紋>

大野城の城主は、築城されてから明治に入り城が払い下げられるまでの間に、19人が務めています。 安土桃山時代の城主には、金森長近のほか、豊臣秀吉の一族といわれる青木一矩(かずのり)や、信長の孫・織田秀雄(ひでかつ)などもいました。

江戸時代に入ると、大野は福井藩の一部となり、福井藩主・結城秀康(松平秀康)の有力な家臣・土屋正明が大野城主を務めました。 土屋正明は結城秀康の家臣でありながら石高は3万8千石(≒お米で約5700t)で、小藩の大名と同じくらいの領地を持っている優秀な人物でした。

寛永元年(1624)に、結城秀康の子・松平直政が城主となった際には、大野藩の石高は5万石(≒お米で約7500t)に加増されました。 松平直政はその後、信濃松本(現在の長野県松本市)で7万石(≒お米で約10500t)、出雲松江(現在の島根県松江市)で18万石(≒お米で約27000t)と領地を加増され移っていきました。
天和2年(1682)に大老・土井利勝の子、土井利房が大野城主となると、幕末まで約180年の間に、土井家から8人が城主となりました。

最後には、明治5年(1872)に入札により本丸が商人など20人以上に払い下げられ、約290年の大野城の歴史に幕が下ろされたのです。

初代城主 金森長近

金森長近公 金森長近公

<金森長近公>

天正3年(1575)、織田信長は、金森長近と原政茂の両名に命じて、大野郡の一向一揆を収束させました。 その恩賞として、大野郡の3分の2を長近に、3分の1を政茂に与えたといわれています。 長近は程なく亀山に平山城の城郭と、その東麓に、「北陸の小京都」と呼ばれる所以となる、短冊状の城下町をつくり始めました。

幕末の名君 土井利忠

土井利忠公(柳廼社蔵) 土井利忠公(柳廼社蔵)

<土井利忠公(柳廼社蔵)>

土井利忠(どいとしただ)は文化8年(1811)、江戸に生まれ、8歳で土井家7代を継ぎ、文政12年(1829)19歳で藩主として大野へ入ってきました。 藩の財政は非常に苦しく、利忠の藩政改革は天保13年(1842)の「更始(こうし)の令」によりはじめられ、藩財政の立て直しと、人材登用を柱にしてすすめられました。

城下町

大野城下絵図(広島市立中央図書館提供)

<大野城下絵図(広島市立中央図書館提供)>

大野は古くから、越前・美濃両国を結ぶ交通の要所として栄えてきました。 天正3年(1575)には、織田信長の初期親衛隊「小姓衆・赤母衣(あかほろ)衆」であった金森長近が、戦功により大野の大部分を統治するようになりました。 長近はまず亀山に城を構築するとともに、京都に似た碁盤目状(短冊型)の城下町の建設に着手。 大野が「北陸の小京都」と呼ばれる所以となります。これが現市街地の起源となり、以後約430年間、大野は奥越前の中心地として栄えてきました。



ご利用案内

11月30日をもって越前大野城の開館を終了し、12月1日から冬期休館となります。

開館時期

4月~9月

午前9時~午後5時

10月~11月

午前9時~午後4時

閉館30分前までにご入館ください。

休館期間

12月1日~3月31日

入館料

大人

200円

( 30名以上の団体様:100円 )

小人

無料 ( 中学生以下 )

所在地

福井県大野市城町3-109

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